液体状の夕焼け

不自然な呼吸 世界一の秘密 悲しかったよ

神聖かまってちゃん×大森靖子 @仙台CLUB JUNK BOX


神聖かまってちゃん with 大森靖子【ロックンロールは鳴り止まないっ】2014/7/23 仙台CLUB JUNK BOX - YouTube

 

 もはや現代社会は生真面目な人間ほど壊れてしまうのであり、靖子ちゃんもの子も生真面目に社会と対峙しようとしすぎて壊れた結果、こんなパフォーマンスをするようになったのではないかというのが、私の仮説である。

 

 <印象的だったこと>

 ・靖子ちゃん、また観客とチューしてた。くそっ、俺も最前列で見たかった

 ・金髪ショートなのかー(・∀・)ニヤニヤ

 ・しかし「デートはやめよう」ってかなりの名曲だと思う。「生きてるって実感できちゃうよな/エロいことをしよう」という歌詞が秀逸。バタイユ先生も、21世紀の島国でこんな歌詞を書く女が現れたこと、さぞかし地獄で悦んでいるに違いない

 ・生かまってちゃんは初めてだったけど、死にたい死にたい連発するような曲で観客がヘトバンでノリまくりってのは異様な光景だと思った。いや、むしろ素晴らしいと思うけど。このような形で、いろんな人を救済する音楽なのだろう

 ・アンコールの、かまってちゃん×靖子ちゃんの「ロックンロールは鳴り止まないっ」。これを生で聴けたこと、今年一番の僥倖ではないだろうか。ロックンロールはすべてを解放してくれる音楽なのだと、改めて実感した

青葉市子 @Forsta


青葉市子 - 奇跡はいつでも @ 音泉温楽 2011冬 渋温泉 - YouTube

 

 前略 青葉市子様

 

 あなたはキュート過ぎます。ギターをチューニングする時の何気ない仕草。会場を歩きまわる時のチョコチョコした足取り。そして、その小さい身体から発せられたとは考えられないくらいの圧倒的な歌声。どれをとっても、国家が全力で守らなければならないレベルの可愛さです。

 僕は会場後方のPA機材の隣に座っていたのですが、ライブ前PAをいじるスタッフがやってきたと思ってチラッと見たところ、なんと市子さん本人ではありませんか!まさかこんな近くで対面できるなんて。緊張のあまり、声をかけることさえできませんでしたが。

 

 ライブ途中、一度休憩タイムを挟んだときに僕はトイレに並んだのですが、ふたつ後ろに並んでいたのは、なんと再び市子さんでした。

 さっきのMCで「仙台と盛岡の牛タンは違うらしいですね」という話をしていたときに思いっきり頷いたら「後ろのサラリーマンみたいな人が頷いてくれてる」って言ってくれたので、その流れで牛タンの話をしたかったのですが、またしても緊張で身体が固まって、何も話しかけることが出来ませんでした。まるで初恋の中学生のようです。

 このような感情を抱いたのは、初めてクラムボンのライブで原田郁子さんを見たとき以来かもしれません。思えば、郁子さんと市子さんって共作もしてますもんね。もしツーマンライブとか開催されたら、仕事ほっぽり出してでも行きます。

 

 さて、かれこれ二年以上市子さんのファンであるのにも関わらず、ライブに行くのは初めてでした。だから、何度も何度も音源で聴いた曲たちを、肉声を通じて直に届けられるという幸せに、僕はずっとずっと酔いしれていました。

 特に、どうしても聴きたいと思っていた「機械仕掛乃宇宙」を演奏してくれたこと、とても嬉しく思います。長尺の曲にも関わらず、静寂と迫力のコントラストが魅力的で、時間が一瞬にも感じました。

 そして何より、アンコールで「奇跡はいつでも」をやってくれたこと!僕はこの曲がいちばん大好きです。2012年は、個人的には嫌なことや辛いこともたくさんあった年だったのですが、この曲を聴くと本当に奇跡が起こって、心配や不安がいつも消えてなくなるのでした。

 どうしても「奇跡はいつでも」が聴きたくて、でも演奏する気配がなくて、だから最後の最後でこのイントロが流れてきた時に、またしても奇跡が起きた!と思いました。市子さんは、僕に奇跡を与えてくれる魔女みたいな存在です。

 

 ぜひ、また仙台でライブをしてくださいね。必ず見に行きます。新曲も楽しみにしています。

 

 草々

アデル、ブルーは熱い色


『アデル、ブルーは熱い色』予告編 - YouTube

 

感想がまとまらないので、つらつらと

 

・セックスシーンと同じくらい、食べるシーンが印象的。スパゲティをおかわりしたり、トマとの失恋直後に泣きながらチョコバーを貪ったり(このシーン大好き!)。食欲が旺盛な女は性欲も強いというけれど、何もかも欲しがるアデルを見ると、この仮説は正しいのだと思えてくる。なんとなく、江國香織の「うんとお腹をすかせてきてね」の美代を思い出した


・メディアで取り上げられるほど、同性愛というテーマが主軸の作品では無いと感じた。少なくともアデルの感情の揺れは、同性愛特有のものではないと思う(いや、同性愛特有の感傷の実態は僕にも分からないのだけれど)。アデルの浮気でエマがあんなに憤怒したのは、やっぱり相手が男だったからだろうな。エマ自身が不安定な状態なのに、レズビアンというアイデンティティを否定するようなアデルの行為は許しがたかったのだろう


・長尺のセックスシーン、不要論もあるけれど、やはり僕は必要だと思った。特に、若く燃え上がる恋の絶頂において、恋人たちのセックスの悦びは永遠にも感じるものだから。食べる、セックスする、寝る。こんな根源的な欲求を満たすことが愛のかたちのひとつで、時間をかけてそれを誠実に切り取ったからこそ、ここまで絶賛される作品になったのだろう。

 

・このセックスシーンは、非常に官能的ではあるけれど、露骨に劣情をもよおす類のものではない。『愛の渦』のセックスシーンが性の滑稽さを描いたのと同じような強度で、この映画のセックスシーンは性の激しさと崇高さを描いている。「激しさと崇高さ」と書いたけれど、これはクリムトの絵にも見られるテーマだ。そうか、このセックスシーンはクリムトを見たときに味わった感動に似ているのだ(しかしエマの絵は、どちらかと言えばシーレ寄りではないかな)

 

・ このセックスシーンを見た原作者は、現場にレズビアンはいなかったのかと憤ったみたいだけど、それはお門違いな批判だと思った。だって、アデルにとって、 エマは「同性愛」の相手というよりは、たまたま愛した相手が女だったというほうが正確なのだから。だから、これはヘテロセックスの論理で撮影するべきシーンで間違いないのだ

・エマの仕草や思想そのものも、ところどころ男を感じた。最もそう思ったのは、カフェで再会した際に、「心のなかではずっと大切だよ」(せりふうろ覚え)と言った場面。その証拠に、エマは別れた後もアデルをモチーフに絵を描いたわけだし。穂村弘角田光代の『異性』で、ほむほむが「男は交際していた女を試算目録に載せる」と言っていた(わかる、わかりすぎる!)。エマがやったのは、これと同じ行為なのかもしれない


・ エマはアデルに物語を創作してほしかった。これも男っぽい論理ではないか。セクシャルマイノリティとして、あるいは夢追い人として、エマはアデルと共闘し たかった。しかしアデルは今この瞬間の幸せを求めていた。そのすれ違い!これは男女の関係にもしばしば見られるものである。エマが、画廊の偉い人(名前失念)を嫌っておきながら、結局はそいつがプロデュースした展覧会で脚光を浴びるというのも、ある意味男社会の論理を踏襲しているなと思ってしまう


・アデルは、どこまでも女であって、エマのことを忘れない限り次には進めないと思う。この作品の原題が『アデルの生涯 チャプター1・2』であるならば、チャプター3にエマが登場することはないだろう(同じ論理で、アデルがサミールと交際することもないだろう)


・アデルのヒステリー教師っぷりはどうしたものか。文学少女時代は、あんな教師がもっとも嫌いだったはずではなかったか。失恋であんなになってしまったのだろうか。やはりエマの言うとおり、そもそも本当にやりたいことではなかったんじゃないだろうか(だからもしチャプター3があるならば、そのときアデルは教師を辞めているように思う)


・ 最後まで見た感想として、やはりフランス映画っぽいなと。恋の昂ぶりを描きながら、どこか冷静な眼で恋愛の儚さとか別離のさみしさとかを見据えている。そして、どことなくサガンの小説を思い出す


・さすが三時間の映画だけあって、語りたい言葉がたくさん出てくるなあ。さすがに打ち止め

スタージョン「一角獣の泉」に見る処女厨の極致

 穂村弘が取り上げていた『一角獣・多角獣』(小笠原豊樹訳)をようやく読めた。今日はその冒頭の「一角獣の泉」について。

***

<ネタバレあらすじ>

 地主の娘・リタは、その美しさ・妖艶さを武器に、多くの男をたぶらかしていた。今晩も、同じ村に住む無骨な青年・デルを屋敷に招いては、変な薬の入った酒を飲ませて、昏睡状態にさせる。

 デルはリタを追いかけようとするが、薬の力で目が見えなくなったため、壁に激突したり、階段から落ちたり……結局リタはデルに指一本触れさせること無く逃げ切り、デルは絶望的な気持ちで屋敷の外で倒れこむ。


 一方、同じ村にはバーバラという地味で目立たない娘も住んでいた。誰からも顧みられることがないけれども、彼女は誰よりも「受け取る」ことができる女であった。

 鳥の歌声、木々のささやき、そのようなもので満たされていた彼女は、実に清らかな精神を持っていた。そしてある日、処女にしかなびかないという伝説の一角獣を、泉で目撃するのだった。


 バーバラは散歩をしていた。すると、倒れこんでいたデルを発見した。実はデルに好意を持っていたバーバラは、デルの傷の手当をする傍らで、一角獣の話をする。

 しかし、目が見えないデルは、バーバラをリタだと勘違いする。そして、先ほど受けた仕打ちへの仕返しとして、一角獣を捕まえられない身体に、つまりは無理やり犯してバーバラの処女を奪ってしまったのだった。


 後日、目が回復したデルはリタを見つける。お前はもう一角獣を捕まえられないと嘲るデルに対して、リタはお前が犯した女は私ではないと言い放つ。

 そして、自分は処女なのだから、一角獣を捕まえることができるはずだ、そいつがいる場所に連れて行けと命じる。バーバラの案内のもと、リタは一角獣の出現する泉へと向かう。


 ほどなく、一角獣が出現する。リタのもとに向かう一角獣。リタは我が意を得たりと思って、捕獲しようとする。しかし一角獣は、リタにはなびかなかった。そして、すでに処女では無いはずのバーバラのもとへ向かう。

 バーバラの膝の上に頭を乗せる一角獣。すると、バーバラの隠されていた美しさが一気に開花する。一角獣はいなくなり、リタは屈辱にまみれ、デルは溜飲を下げるのであった。


***


<処女と処女性とのあいだ>


 登場した二人の女を整理してみると、
  リタ:肉体的には(たぶん)処女。しかし性悪かつ自己愛のみしか持たない。
  バーバラ:肉体的には(きっと)非処女。しかし清くて聡い精神を持っている。
 との対比ができる。
 そして最終的に一角獣(ユニコーンのこと)が選んだのは、バーバラであった!

 この事実を見るに、おそらく処女厨の一角獣さんにとって大切なこととは、「処女であるという事実」(挿入されたかどうか)ではなくて、むしろ「精神の処女性」である。一角獣さんは、それはそれは厳格な処女崇拝者(人じゃないけど)なので、そんな奴が選んだバーバラこそが、「精神の処女性」の極限なのであろう。


 芥川龍之介だってそうでしょ。「処女崇拝者は恋愛上の衒学者と云はなければならぬ」と喝破した上で、

勿論処女らしさ崇拝は処女崇拝以外のものである。この二つを同義語とするものは
恐らく女人の俳優的才能を余りに軽々に見てゐるものであらう。

ーー『侏儒の言葉


 とのお言葉を残しているではないか。

 そう、何より大事なのは「処女性」である。だから、スキャンダルが出て開き直る指原では駄目なのだ(この話は荒れそうなのでまた別途)。たとえ肉体は犯されても、本当に気高い精神であれば、男はそれを蹂躙できない。

 バーバラの清い心は、きっといつまでも残り続けるのである。


***


 この短編で一番好きなのは

 

この娘にはだれか愛する者が必要だったのかもしれない。
なぜなら、愛するとは受け取ることの極致である。
返戻なしに愛されたことのある人なら、だれでもこれを証明できるだろう。
愛される人は、与えに与えなければならない。

 
 というくだりである。


 ポイントは、「愛される」側が「与える」側だということ。キリスト教的な視点からすれば、「愛する」ことこそ「与える」はずなのに。しかし私は、スタージョンの思想に全面的に同意する。それは有島武郎の『惜しみなく愛は奪う』にかつての自分が感銘を受けたのと同じこと。

 与える愛なんて、驕りだ。

 有島先生の愛の思想を、まさかこの小説に見いだすことになるなんて!


***


「罰せられるはずはないよ……ああいう……燦然たる美しさが」


 この短編は、デルのこんな台詞で締めくくられている。これは一角獣に対して捧げた言葉なのだけど、同時にバーバラに向けたものであるのは明白だ。そして、自らが犯した罪によってバーバラの「燦然たる美しさ」が汚れることもないのだと、自分で自分に言い聞かせているのだ。

 そうだよね。

 燦然たる美しさは、男の憤怒や劣情などで、罰せられるはず、ない。


ヤプーズ バーバラ・セクサロイド - YouTube

遠藤周作『わたしが・棄てた・女』

 これまで読んできた周作先生の小説のなかで、いちばん好きかもしれない。恥ずかしながら『深い河』は未読なので、暫定トップとしか言えないけれど(25歳になっても、まだディープ・リバーを読む勇気は無いのだが、これはまた別の話)。

 

<乱暴すぎるあらすじ>

 主人公・吉岡は、冴えない大学生。お金もないし、女もいない。そんな童貞生活を抜け出したくて、ひょんなことから、愚鈍でミーハーな女子工員・ミツと出会う。はじめてのデートで、「やらせろよ」「いやよ、こわいもの」といった、ありがちな押し問答。それもそのはず、ミツもまた、処女であった。

 ミツがあまりにも拒絶するので、気が萎えた吉岡は、ひとり帰ってしまう。その道中で、急に具合を悪そうにする吉岡。実は、小児麻痺による持病があったのだ。あとから追いかけてきたミツは、そんな吉岡に同情して「さっきの旅館に連れてって」と伝える。しかし、すっかり萎えてしまっていた吉岡は、その申し出を断り、帰ってしまう。

 後日、吉岡は性懲りもなくミツを誘い、小児麻痺の話をして同情を引いて、抱くことに成功。でも吉岡の胸に生まれたのは、ミツに対する愛情でなければ、童貞喪失の達成感でさえなかった。「なんでこんな汚い女を抱いてしまったのか」「もう二度とこんな女を抱くものか」。かくして、吉岡はミツをヤリ捨てする。ミツが抱く、吉岡への愛情を無視して。

 

 その後いろいろあって、吉岡は社会人になり、職場の重役の娘(しかも美人)と結婚することになる。人生、順風満帆!過去にヤリ捨てした女のことなんか、もう忘れちまったぜ。

 しかしまあ、なんとなくミツのことも気になるから、ツテを頼って消息を辿り、再会。するとなんと、ミツが癩病(当時は不治の病と言われていた)であることが分かってしまう。実はそれは誤診であり、ミツは癩病ではなかったのだが、他人の痛みを自分の痛みとして感じてしまうミツは、癩病患者の隔離施設で働くことを決心。

 吉岡は、結婚した後もミツのことが気にかかり、年賀状を送るのだが、ミツからの返事はなかった。そして、その施設の職員から、ミツが交通事故死したという知らせを受けるのだった。

 

 ミツの最期の言葉は、「さいなら、吉岡さん」。ただヤリ捨てした女である。よくある話である。それなのに、なんでこんなに寂しいのだろう。

 吉岡の、悔恨とも憐憫ともつかない自省の言葉で、この小説は締めくくられる。

 

<ミツについて>

 この小説のなかで、ミツは「聖女」として描かれている。その聖女っぷりに、僕の胸も打たれた。たとえば、欲しい服を買うために一所懸命残業して貯めた給料を、職場の上司(しかも自分にキツく当たる)の子供が給食費を払えないということで、そのために貸してしまう。

 他にも、人の罪を被って、自分が職場を辞めなければならない事態になったり、吉岡に処女を捧げたのだって、それは吉岡が可哀相だと思ったことが発端であったのだ。

 半端な同情心では、このような行動にはつながらない。人の痛みを、自分の痛みとして感じること。つまり隣人愛の実践者こそが、このミツなのである。

 

 しかし同時に、ミツは「愚鈍でミーハー」な女でもある。「明星」を読み耽るくらいに、映画スターに夢中になったりするような。

 それに、処女を捨てたあとで、まだ処女な友達に対して、多少なりとも優越感を覚えてしまうような一面だってある。癩病だと言われたときに、この世のすべてを憎く思ってしまったりもする。

 つまりミツは、生まれながらの聖女というわけではない。普通の女である。それなのに、何故にミツは聖女になり得たのだろう。

 それはただひたすらに、他人の痛みに、誠実に、じかに触れ続けたからではないだろうか。結局は、世の中は積み重ねである。それを積み重ねたことで、ミツは聖女へと高まっていったのであろう。

 

 もうひとつ、重要なファクターがあって、それはミツが誰からも愛されなかったということ。家族からの愛も、男からの愛も、ミツが受けることはなかった。

 愛されないことの孤独、痛み、悲しみ。そのようなものを携えながら、ミツは生きていた。他人の痛みに、ミツがどこまでも共感することができたのは、そのためなのかもしれない。

 

<吉岡について>

 吉岡は、どこにでもいるような凡夫である。ヤリ捨てした女が死んだ、という結論だけ取り出せば酷いけど、まあありふれた話である。

 ありふれた男だからこそ、読者は吉岡のなかに自分自身を発見せずにはいられない。それは、ちょうどコンスタンの『アドルフ』で、アドルフのなかに自分を見出さずにはいられないのと同じである。

 そして、吉岡には安易な贖罪の道などは残されていないのだ。痛みを感じるしかない。寂しさを味わうしかない。そして、それを積み重ねるしかない。

 それでも、吉岡がミツと同じ土壌に立てるかは分からない。分からないけど、寂しさを抱えて生きることしか、吉岡には残されていない。それだけのことを、吉岡はしでかしてしまったのだから。

 

 「だが忘れちゃいけないよ。人間は他人の人生に痕跡を残さずに交わることはできないんだよ。」この周作先生の警句を、もっと早く聞きたかったし、あるいは今だからこそ理解できるのかもしれない。

 

 

<この小説のこと>

 周作先生の眼差しは、どこまでも深く、我々を包んでくれる。ミツの孤独だけではない。吉岡の孤独さえも、この小説は受け入れてくれるのだ。

 「しめった微温は青年の生理に一番いけない刺激なんだ。」ちょうど梅雨空が広がるなかで読んだから、この台詞に共感せずにはいられなかった。

 

 そう、これだからこの人の小説は読み継がれるのだ。お高いところからのお説教では決してない。絵空事でもない。描いているのは、現実だ。

 「こいつらはぼくの大嫌いな文学青年や演劇少女たちだ。口では実存主義だの虚無だの高尚なことを言っているが、よごれた下着とくさい臭いのする靴下をはいている連中だ。」という描写があるけれど、周作先生の小説は、決して口だけではないのだ。

 だからこそこの小説はは、読む者にも格闘を強いるような熱を帯びている。自分のなかにいる吉岡と闘わなければ、この小説を読み切ることはできないのである。

 そしてまた、ミツの死をどのように受け止めるか、理解するかに関して、死生観を揺さぶられずにはいられないような小説なのだ(さっきから「~せずにいられない」を多用しすぎですね)。

 未だにディープ・リバーを読めないでいる理由も、実はそこにある。この20年悩んできたことの答えの糸口が、きっとその小説には書かれているのだけど、だからこそ安易な気持ちで読むことはできないのだ(30歳になったら読もうと決めているんだけど)。


 遠藤周作の眼差しのやさしさの背後には、徹底した厳粛さが存在している。その厳粛さこそが、遠藤文学を普遍的なものに仕立て上げているに違いない。

 

***

 

 しかしまあ、このタイミングでこの小説を読んでしまったことは幸か不幸か。自分も自分のなかの吉岡と格闘しようとして打ちのめされて、ミツの姿があまりにも眩しすぎて、胸が壊れそうになりながら、こんな文章を綴っているのだけど。

 

***

 

その数えきれない人生の中で、ぼくのミツにしたようなことは、男なら誰だって一度は経験することだ。
ぼくだけではない筈だ。しかし……しかし、この寂しさは、一体どこから来るのだろう。
ぼくには今、小さいが手がたい幸福がある。その幸福を、ぼくはミツとの記憶のために、棄てようとは思わない。
しかし、この寂しさはどこからくるのだろう。
もし、ミツがぼくになにか教えたとするならば、それは、ぼくらの人生をたった一度でも横切るものは、
そこに消すことのできぬ痕跡を残すということなのか。寂しさは、その痕跡からくるのだろうか。
そして亦、もし、この修道女が信じている、神というものが本当にあるならば、
神はそうした痕跡を通して、ぼくらに話しかけるのか。しかしこの寂しさは何処からくるのだろう。