遠藤周作『わたしが・棄てた・女』
これまで読んできた周作先生の小説のなかで、いちばん好きかもしれない。恥ずかしながら『深い河』は未読なので、暫定トップとしか言えないけれど(25歳になっても、まだディープ・リバーを読む勇気は無いのだが、これはまた別の話)。
<乱暴すぎるあらすじ>
主人公・吉岡は、冴えない大学生。お金もないし、女もいない。そんな童貞生活を抜け出したくて、ひょんなことから、愚鈍でミーハーな女子工員・ミツと出会う。はじめてのデートで、「やらせろよ」「いやよ、こわいもの」といった、ありがちな押し問答。それもそのはず、ミツもまた、処女であった。
ミツがあまりにも拒絶するので、気が萎えた吉岡は、ひとり帰ってしまう。その道中で、急に具合を悪そうにする吉岡。実は、小児麻痺による持病があったのだ。あとから追いかけてきたミツは、そんな吉岡に同情して「さっきの旅館に連れてって」と伝える。しかし、すっかり萎えてしまっていた吉岡は、その申し出を断り、帰ってしまう。
後日、吉岡は性懲りもなくミツを誘い、小児麻痺の話をして同情を引いて、抱くことに成功。でも吉岡の胸に生まれたのは、ミツに対する愛情でなければ、童貞喪失の達成感でさえなかった。「なんでこんな汚い女を抱いてしまったのか」「もう二度とこんな女を抱くものか」。かくして、吉岡はミツをヤリ捨てする。ミツが抱く、吉岡への愛情を無視して。
その後いろいろあって、吉岡は社会人になり、職場の重役の娘(しかも美人)と結婚することになる。人生、順風満帆!過去にヤリ捨てした女のことなんか、もう忘れちまったぜ。
しかしまあ、なんとなくミツのことも気になるから、ツテを頼って消息を辿り、再会。するとなんと、ミツが癩病(当時は不治の病と言われていた)であることが分かってしまう。実はそれは誤診であり、ミツは癩病ではなかったのだが、他人の痛みを自分の痛みとして感じてしまうミツは、癩病患者の隔離施設で働くことを決心。
吉岡は、結婚した後もミツのことが気にかかり、年賀状を送るのだが、ミツからの返事はなかった。そして、その施設の職員から、ミツが交通事故死したという知らせを受けるのだった。
ミツの最期の言葉は、「さいなら、吉岡さん」。ただヤリ捨てした女である。よくある話である。それなのに、なんでこんなに寂しいのだろう。
吉岡の、悔恨とも憐憫ともつかない自省の言葉で、この小説は締めくくられる。
<ミツについて>
この小説のなかで、ミツは「聖女」として描かれている。その聖女っぷりに、僕の胸も打たれた。たとえば、欲しい服を買うために一所懸命残業して貯めた給料を、職場の上司(しかも自分にキツく当たる)の子供が給食費を払えないということで、そのために貸してしまう。
他にも、人の罪を被って、自分が職場を辞めなければならない事態になったり、吉岡に処女を捧げたのだって、それは吉岡が可哀相だと思ったことが発端であったのだ。
半端な同情心では、このような行動にはつながらない。人の痛みを、自分の痛みとして感じること。つまり隣人愛の実践者こそが、このミツなのである。
しかし同時に、ミツは「愚鈍でミーハー」な女でもある。「明星」を読み耽るくらいに、映画スターに夢中になったりするような。
それに、処女を捨てたあとで、まだ処女な友達に対して、多少なりとも優越感を覚えてしまうような一面だってある。癩病だと言われたときに、この世のすべてを憎く思ってしまったりもする。
つまりミツは、生まれながらの聖女というわけではない。普通の女である。それなのに、何故にミツは聖女になり得たのだろう。
それはただひたすらに、他人の痛みに、誠実に、じかに触れ続けたからではないだろうか。結局は、世の中は積み重ねである。それを積み重ねたことで、ミツは聖女へと高まっていったのであろう。
もうひとつ、重要なファクターがあって、それはミツが誰からも愛されなかったということ。家族からの愛も、男からの愛も、ミツが受けることはなかった。
愛されないことの孤独、痛み、悲しみ。そのようなものを携えながら、ミツは生きていた。他人の痛みに、ミツがどこまでも共感することができたのは、そのためなのかもしれない。
<吉岡について>
吉岡は、どこにでもいるような凡夫である。ヤリ捨てした女が死んだ、という結論だけ取り出せば酷いけど、まあありふれた話である。
ありふれた男だからこそ、読者は吉岡のなかに自分自身を発見せずにはいられない。それは、ちょうどコンスタンの『アドルフ』で、アドルフのなかに自分を見出さずにはいられないのと同じである。
そして、吉岡には安易な贖罪の道などは残されていないのだ。痛みを感じるしかない。寂しさを味わうしかない。そして、それを積み重ねるしかない。
それでも、吉岡がミツと同じ土壌に立てるかは分からない。分からないけど、寂しさを抱えて生きることしか、吉岡には残されていない。それだけのことを、吉岡はしでかしてしまったのだから。
「だが忘れちゃいけないよ。人間は他人の人生に痕跡を残さずに交わることはできないんだよ。」この周作先生の警句を、もっと早く聞きたかったし、あるいは今だからこそ理解できるのかもしれない。
<この小説のこと>
周作先生の眼差しは、どこまでも深く、我々を包んでくれる。ミツの孤独だけではない。吉岡の孤独さえも、この小説は受け入れてくれるのだ。
「しめった微温は青年の生理に一番いけない刺激なんだ。」ちょうど梅雨空が広がるなかで読んだから、この台詞に共感せずにはいられなかった。
そう、これだからこの人の小説は読み継がれるのだ。お高いところからのお説教では決してない。絵空事でもない。描いているのは、現実だ。
「こいつらはぼくの大嫌いな文学青年や演劇少女たちだ。口では実存主義だの虚無だの高尚なことを言っているが、よごれた下着とくさい臭いのする靴下をはいている連中だ。」という描写があるけれど、周作先生の小説は、決して口だけではないのだ。
だからこそこの小説はは、読む者にも格闘を強いるような熱を帯びている。自分のなかにいる吉岡と闘わなければ、この小説を読み切ることはできないのである。
そしてまた、ミツの死をどのように受け止めるか、理解するかに関して、死生観を揺さぶられずにはいられないような小説なのだ(さっきから「~せずにいられない」を多用しすぎですね)。
未だにディープ・リバーを読めないでいる理由も、実はそこにある。この20年悩んできたことの答えの糸口が、きっとその小説には書かれているのだけど、だからこそ安易な気持ちで読むことはできないのだ(30歳になったら読もうと決めているんだけど)。
遠藤周作の眼差しのやさしさの背後には、徹底した厳粛さが存在している。その厳粛さこそが、遠藤文学を普遍的なものに仕立て上げているに違いない。
***
しかしまあ、このタイミングでこの小説を読んでしまったことは幸か不幸か。自分も自分のなかの吉岡と格闘しようとして打ちのめされて、ミツの姿があまりにも眩しすぎて、胸が壊れそうになりながら、こんな文章を綴っているのだけど。
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その数えきれない人生の中で、ぼくのミツにしたようなことは、男なら誰だって一度は経験することだ。
ぼくだけではない筈だ。しかし……しかし、この寂しさは、一体どこから来るのだろう。
ぼくには今、小さいが手がたい幸福がある。その幸福を、ぼくはミツとの記憶のために、棄てようとは思わない。
しかし、この寂しさはどこからくるのだろう。
もし、ミツがぼくになにか教えたとするならば、それは、ぼくらの人生をたった一度でも横切るものは、
そこに消すことのできぬ痕跡を残すということなのか。寂しさは、その痕跡からくるのだろうか。
そして亦、もし、この修道女が信じている、神というものが本当にあるならば、
神はそうした痕跡を通して、ぼくらに話しかけるのか。しかしこの寂しさは何処からくるのだろう。