スタージョン「一角獣の泉」に見る処女厨の極致
穂村弘が取り上げていた『一角獣・多角獣』(小笠原豊樹訳)をようやく読めた。今日はその冒頭の「一角獣の泉」について。
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<ネタバレあらすじ>
地主の娘・リタは、その美しさ・妖艶さを武器に、多くの男をたぶらかしていた。今晩も、同じ村に住む無骨な青年・デルを屋敷に招いては、変な薬の入った酒を飲ませて、昏睡状態にさせる。
デルはリタを追いかけようとするが、薬の力で目が見えなくなったため、壁に激突したり、階段から落ちたり……結局リタはデルに指一本触れさせること無く逃げ切り、デルは絶望的な気持ちで屋敷の外で倒れこむ。
一方、同じ村にはバーバラという地味で目立たない娘も住んでいた。誰からも顧みられることがないけれども、彼女は誰よりも「受け取る」ことができる女であった。
鳥の歌声、木々のささやき、そのようなもので満たされていた彼女は、実に清らかな精神を持っていた。そしてある日、処女にしかなびかないという伝説の一角獣を、泉で目撃するのだった。
バーバラは散歩をしていた。すると、倒れこんでいたデルを発見した。実はデルに好意を持っていたバーバラは、デルの傷の手当をする傍らで、一角獣の話をする。
しかし、目が見えないデルは、バーバラをリタだと勘違いする。そして、先ほど受けた仕打ちへの仕返しとして、一角獣を捕まえられない身体に、つまりは無理やり犯してバーバラの処女を奪ってしまったのだった。
後日、目が回復したデルはリタを見つける。お前はもう一角獣を捕まえられないと嘲るデルに対して、リタはお前が犯した女は私ではないと言い放つ。
そして、自分は処女なのだから、一角獣を捕まえることができるはずだ、そいつがいる場所に連れて行けと命じる。バーバラの案内のもと、リタは一角獣の出現する泉へと向かう。
ほどなく、一角獣が出現する。リタのもとに向かう一角獣。リタは我が意を得たりと思って、捕獲しようとする。しかし一角獣は、リタにはなびかなかった。そして、すでに処女では無いはずのバーバラのもとへ向かう。
バーバラの膝の上に頭を乗せる一角獣。すると、バーバラの隠されていた美しさが一気に開花する。一角獣はいなくなり、リタは屈辱にまみれ、デルは溜飲を下げるのであった。
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<処女と処女性とのあいだ>
登場した二人の女を整理してみると、
リタ:肉体的には(たぶん)処女。しかし性悪かつ自己愛のみしか持たない。
バーバラ:肉体的には(きっと)非処女。しかし清くて聡い精神を持っている。
との対比ができる。
そして最終的に一角獣(ユニコーンのこと)が選んだのは、バーバラであった!
この事実を見るに、おそらく処女厨の一角獣さんにとって大切なこととは、「処女であるという事実」(挿入されたかどうか)ではなくて、むしろ「精神の処女性」である。一角獣さんは、それはそれは厳格な処女崇拝者(人じゃないけど)なので、そんな奴が選んだバーバラこそが、「精神の処女性」の極限なのであろう。
芥川龍之介だってそうでしょ。「処女崇拝者は恋愛上の衒学者と云はなければならぬ」と喝破した上で、
勿論処女らしさ崇拝は処女崇拝以外のものである。この二つを同義語とするものは
恐らく女人の俳優的才能を余りに軽々に見てゐるものであらう。ーー『侏儒の言葉』
とのお言葉を残しているではないか。
そう、何より大事なのは「処女性」である。だから、スキャンダルが出て開き直る指原では駄目なのだ(この話は荒れそうなのでまた別途)。たとえ肉体は犯されても、本当に気高い精神であれば、男はそれを蹂躙できない。
バーバラの清い心は、きっといつまでも残り続けるのである。
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この短編で一番好きなのは
この娘にはだれか愛する者が必要だったのかもしれない。
なぜなら、愛するとは受け取ることの極致である。
返戻なしに愛されたことのある人なら、だれでもこれを証明できるだろう。
愛される人は、与えに与えなければならない。
というくだりである。
ポイントは、「愛される」側が「与える」側だということ。キリスト教的な視点からすれば、「愛する」ことこそ「与える」はずなのに。しかし私は、スタージョンの思想に全面的に同意する。それは有島武郎の『惜しみなく愛は奪う』にかつての自分が感銘を受けたのと同じこと。
与える愛なんて、驕りだ。
有島先生の愛の思想を、まさかこの小説に見いだすことになるなんて!
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「罰せられるはずはないよ……ああいう……燦然たる美しさが」
この短編は、デルのこんな台詞で締めくくられている。これは一角獣に対して捧げた言葉なのだけど、同時にバーバラに向けたものであるのは明白だ。そして、自らが犯した罪によってバーバラの「燦然たる美しさ」が汚れることもないのだと、自分で自分に言い聞かせているのだ。
そうだよね。
燦然たる美しさは、男の憤怒や劣情などで、罰せられるはず、ない。