液体状の夕焼け

不自然な呼吸 世界一の秘密 悲しかったよ

アデル、ブルーは熱い色


『アデル、ブルーは熱い色』予告編 - YouTube

 

感想がまとまらないので、つらつらと

 

・セックスシーンと同じくらい、食べるシーンが印象的。スパゲティをおかわりしたり、トマとの失恋直後に泣きながらチョコバーを貪ったり(このシーン大好き!)。食欲が旺盛な女は性欲も強いというけれど、何もかも欲しがるアデルを見ると、この仮説は正しいのだと思えてくる。なんとなく、江國香織の「うんとお腹をすかせてきてね」の美代を思い出した


・メディアで取り上げられるほど、同性愛というテーマが主軸の作品では無いと感じた。少なくともアデルの感情の揺れは、同性愛特有のものではないと思う(いや、同性愛特有の感傷の実態は僕にも分からないのだけれど)。アデルの浮気でエマがあんなに憤怒したのは、やっぱり相手が男だったからだろうな。エマ自身が不安定な状態なのに、レズビアンというアイデンティティを否定するようなアデルの行為は許しがたかったのだろう


・長尺のセックスシーン、不要論もあるけれど、やはり僕は必要だと思った。特に、若く燃え上がる恋の絶頂において、恋人たちのセックスの悦びは永遠にも感じるものだから。食べる、セックスする、寝る。こんな根源的な欲求を満たすことが愛のかたちのひとつで、時間をかけてそれを誠実に切り取ったからこそ、ここまで絶賛される作品になったのだろう。

 

・このセックスシーンは、非常に官能的ではあるけれど、露骨に劣情をもよおす類のものではない。『愛の渦』のセックスシーンが性の滑稽さを描いたのと同じような強度で、この映画のセックスシーンは性の激しさと崇高さを描いている。「激しさと崇高さ」と書いたけれど、これはクリムトの絵にも見られるテーマだ。そうか、このセックスシーンはクリムトを見たときに味わった感動に似ているのだ(しかしエマの絵は、どちらかと言えばシーレ寄りではないかな)

 

・ このセックスシーンを見た原作者は、現場にレズビアンはいなかったのかと憤ったみたいだけど、それはお門違いな批判だと思った。だって、アデルにとって、 エマは「同性愛」の相手というよりは、たまたま愛した相手が女だったというほうが正確なのだから。だから、これはヘテロセックスの論理で撮影するべきシーンで間違いないのだ

・エマの仕草や思想そのものも、ところどころ男を感じた。最もそう思ったのは、カフェで再会した際に、「心のなかではずっと大切だよ」(せりふうろ覚え)と言った場面。その証拠に、エマは別れた後もアデルをモチーフに絵を描いたわけだし。穂村弘角田光代の『異性』で、ほむほむが「男は交際していた女を試算目録に載せる」と言っていた(わかる、わかりすぎる!)。エマがやったのは、これと同じ行為なのかもしれない


・ エマはアデルに物語を創作してほしかった。これも男っぽい論理ではないか。セクシャルマイノリティとして、あるいは夢追い人として、エマはアデルと共闘し たかった。しかしアデルは今この瞬間の幸せを求めていた。そのすれ違い!これは男女の関係にもしばしば見られるものである。エマが、画廊の偉い人(名前失念)を嫌っておきながら、結局はそいつがプロデュースした展覧会で脚光を浴びるというのも、ある意味男社会の論理を踏襲しているなと思ってしまう


・アデルは、どこまでも女であって、エマのことを忘れない限り次には進めないと思う。この作品の原題が『アデルの生涯 チャプター1・2』であるならば、チャプター3にエマが登場することはないだろう(同じ論理で、アデルがサミールと交際することもないだろう)


・アデルのヒステリー教師っぷりはどうしたものか。文学少女時代は、あんな教師がもっとも嫌いだったはずではなかったか。失恋であんなになってしまったのだろうか。やはりエマの言うとおり、そもそも本当にやりたいことではなかったんじゃないだろうか(だからもしチャプター3があるならば、そのときアデルは教師を辞めているように思う)


・ 最後まで見た感想として、やはりフランス映画っぽいなと。恋の昂ぶりを描きながら、どこか冷静な眼で恋愛の儚さとか別離のさみしさとかを見据えている。そして、どことなくサガンの小説を思い出す


・さすが三時間の映画だけあって、語りたい言葉がたくさん出てくるなあ。さすがに打ち止め