液体状の夕焼け

不自然な呼吸 世界一の秘密 悲しかったよ

思い出のマーニー


「思い出のマーニー」劇場本予告映像 - YouTube

 

 百合なの!?百合じゃないの!?だってコピーは「あなたのことが大すき。」だし、鈴木敏夫による没になったコピーは「ふたりだけの禁じられた遊び」、「ふたりだけのいけないこと」だし(実はジブリ関係者で、鈴木敏夫が一番オカシイ人なのではないかと思っていて、この話を聞いてそれが確信に変わった)、もう百合でしょ!という期待を込めて映画館へ。

 

 結論から言えば、まったく百合ではない。ちっとも。それなのに百合の期待を持たせるプロモーションは如何なものかと思った。プンプン。「いけないこと」とか言うなら、近親相姦レズくらい振り切っちゃってるのかって思うじゃんか。

 『アデル、ブルーは熱い色』を観れば分かるように、肉体関係がないなら百合なんかじゃない(実際に肉の結合を果たせなかったとしても、それを激しく切望して、でも手に入らないという苦悩を描いていれば、それは百合です)。

 でも、百合じゃないから駄作、というわけではない。むしろ個人的には、傑作になりそこねた一本だと思っている。

 

 「私は外側の人間」「私は、私が嫌い。」という自己否定を繰り返す12歳の少女・杏奈。僕自身、12歳の頃は(むしろ今もか)そのように思っていたから、すっと主人公に感情移入することができた。そんな杏奈が病気療養のために海辺の村の親戚の家で過ごすことになる。その村の広い池のほとりには古くて大きな洋館があって、そこに住む少女・マーニーと杏奈は次第に心を通わせるのであった。

 マーニーとの触れ合いを経て、少しずつ心を開いていく杏奈の描き方は、とても上手だと思った。日頃から心を閉ざしがちな人間にとっては、マーニーみたいなウルトラCの存在の登場こそが、自らを解放するきっかけとなるのだから。つまらん友達や委員長じゃ力不足である。こういう人間に限って、実はとってもわがままで、夢見がちで、白馬の王子様を待っているのです。

 杏奈の性格の悪さが滲み出るシーンが多かったのも好印象。おせっかいな委員長に対して「太っちょ豚」って吐く場面なんか、拍手喝采ものである。せっかく受け入れてくれた大岩のおじさん・おばさんに対しても、割と不遜な態度で接するし。性格悪いくらいじゃないと、きっと幽霊なんて見えない。杏奈をただのいい子として描かなかった判断は大正解だと思う。

 

 だからこそ、あのラストシーンはがっかりだった。すべてを説明する必要が本当にあったのか。あそこまで懇切丁寧に描かなくても、観客はマーニーが杏奈のおばあちゃんだということが分かるはずだ。むしろ、それとなくこの事実を描いたほうが、爽やかな夏の北海道の景色と相俟って、気持ちのよい結末になったはずなのに!

 どうして最後だけ説明過剰になったのだろう。ジブリの自己判断?それともスポンサーからの要望?いずれにせよ、「杏奈がマーニーをおばあちゃんだと認識する」シーンのしつこさ・あざとさは不要であると言いたい。これさえ無ければ、この夏いちばんの切ない映画になりえたのに。

 きっと、ちゃんと説明を、ネタバラシをしてあげることが観客に対する優しさであるのだと監督は考えているのだろう。でも、映画監督が優しくある必要なんか、どこにもない。むしろ杏奈と同じくらい、監督だって性格が悪くてもいい。だって映画は暴力的な芸術なのだから。

 上記を踏まえると、やはりパヤオは、どこまで描くかの取捨選択に関して天才なのだと再認識してしまう。観客に与えるべき情報が過不足ないから、見終わったあとで観客が想像を膨らませる余地が多分に残されるのだ。みんながジブリについて語りたがる理由もそこにあるのだろう。