液体状の夕焼け

不自然な呼吸 世界一の秘密 悲しかったよ

跳躍の美少女 -盛岡青森一人旅 その2-

だって、女には、一日一日が全部ですもの。男とちがう。死後も考えない。思索も、無い。一刻一刻の、美しさの完成だけを願って居ります。 

 ――太宰治「皮膚と心」

 女の子に生まれたかった。幼いころから、ずっと。別に性同一性障害だとか、そこまでシリアスな問題ではないのだけれど、自分が男であることには、未だに違和感と劣等感を抱いている。

 自分が女の子になれないからこそ、少女のもつ跳躍力への羨望は尽きない。女性だけが手に入れられる類の精神の自由さを、僕は「跳躍力」と呼んでいるのだけど、僕がいろんな女の子と遊びたいのも、その跳躍力から漲るエネルギーに触れたいことが理由なのだ。

 上野千鶴子は、ミソジニーの男こそヤリチンだと(こんな露骨な表現ではないけれど)書いていて、確かにそれも一理あるとは思うんだけど、でも自分は違うと思っている。ミソジニーというよりも、むしろミサンドリーだし。男怖いもん。そして、女の子への憧れと、女の子になれなかったコンプレックスが、僕を女の子へと引き寄せるのである(結果として当の女性自身からサイテーと言われるのは、どちらでも変わらないのだけど)。

 

 前置きが長くなった。日曜日。今日の目的は、青森県立美術館の「美少女の美術史」展を見に行くことである(ホントは十和田市現代美術館も行きたかったんだけど、前日の疲れで起床時間が遅くなってしまったから諦めた)。

 ちゃんとジェンダー論を勉強していないから陳腐な意見かもしれないけど、女の子の跳躍力とは、長いこと社会において女性が「客体」であるからこそ逆説的に生まれたエネルギーであると思っている。男たちの好奇的な、無遠慮な視線に晒され、抑圧されてきた女子だからこそ、それをはね除けるだけの力を手に入れることができるのだろう。

 もちろん男だって男なりに社会的な役割に抑圧されているんだけど、一般的に男はその社会の枠組みの中で無難にまとめようとするから、跳躍力は生まれない。それを超越できるのは、破滅を恐れないごく僅かな天才だけだ。

 また話がブレたけど、客体としての女性のなかでも、特に「見られる」ことを意識せざるを得ないのが美少女であろう。好むと好まざるとに関わらず、美少女は注目され、所有され、妄想され、消費される。美少女というカテゴリーに無理やり押し込まれるからこそ、美少女のもつ跳躍力は凄まじいものがある。アイドルの圧倒的な輝きを例として挙げるだけでも充分であろう。

 

 というわけで、美少女を主題にした展覧会には非常に心を惹かれていた。胸を高鳴らせながら、盛岡から青森へ向かう。道中、焼ききりたんぽが食べたくて花輪SAで休憩したら、こんなものを見つけた。

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 今や街興しにも美少女が使われる時代。やはり美少女の跳躍力は病める現代社会への特効薬なのだ(と言いつつこのクリアファイル、背景が没個性的すぎて、いったいどこのご当地なのかよく分かんないけど)。

 

 そして念願の青森県立美術館に到着。真っ白な建築と、芝生の緑のコントラストがとても美しい。しかし、美少女の美術史の看板がデカデカと掲げられていると、一瞬にして空間が混沌とする。それさえ美しいのだけど。

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 入館するといきなり美少女ライブペインティングの制作物が。なかなか露悪的な美少女たちの笑顔に、予備知識無しで入館したと思われる中年ご夫婦は眉を顰めていた。こないだロリコン誘拐犯が捕まったばかりだから、尚更なのかもしれない。

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 ※ここから先は撮影禁止なので、公式HP等からの転載となります

 展示室に入ると真っ先に眼に入るのが、全長6mもあるタカノ綾のフィギュア。この人の作品は穂村弘の『手紙屋まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』でしか知らなかったけど、なんという挑発的な瞳をしているのだろう。この瞳に吸い寄せられたが最後、男たちはどこまでも堕ちていくのである。

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 現代の作家の作品で一番感銘を受けたのは、谷口真人さんの「Untitled」だった。図録の解説を引用すると「手前のアクリルに盛られた絵の具の塊の奥にひそむイメージが、奥の鏡に少女の像を結んでい」る作品である。

 この作品がすごいのは、鏡の中の少女を見る時に、否が応でも少女を覗きこむ自分とも眼が合ってしまうこと。さっき、美少女は見られる客体だと書いたけれど、現代においては、すべての人間が客体と化しているのかもしれない。常に何者かに監視され、また自分も誰かを監視していないと不安になる時代。そんな閉塞した社会を、しかしながら美少女たちはピョイと飛び越える。まるでそれが美少女だけに与えられた特権であるかのごとく。

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 太宰治の『女生徒』を題材にしたオリジナルアニメも素敵だった。遊佐未森のナレーションが、レトロな作風とよくマッチしている。ちなみに、いち早く女性の跳躍力に気付いた作家こそが太宰であると僕は思っている。何度も心中しようとしたのも、女性に死の世界に導かれることが解放に結びつくと信じていたからなのかもしれない。


美少女展オリジナルアニメ予告編 - YouTube

 

 個別の作品について言及しているとキリがないので打ち止めにするけど、僕が求めていた美少女の跳躍力を期待以上に味わえる展覧会であった。諸々の作品の前で、ひとりニヤけたり驚愕したり震えたりする僕を見て、他のお客さんは「気持ち悪っ!」って思ったかもしれない。でも、美少女に対しては、心を空っぽにして向き合うこと。これこそが、跳躍のエネルギーを感じるために唯一必要なことだというのが持論だから、こればっかりは仕方がないのだ。

 

 なお、常設展の「寺山修司×宇野亜喜良:ひとりぼっちのあなたに」も震えまくるような展覧会だったのだけど、寺山修司について語り出すともう止まらなくなってしまうから、「昂奮した」以外の感想は書かないでおきます。

 

 その後青森駅前のホテルにチェックイン。ホテルそばのファッションビル・アウガではこんなイベントをやっていた。

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 今日は一日中美少女と接する日なのだと実感。

 

 晩ごはんをどうしようか迷い、昨日と同じく現地の人に聞く作戦に出る。すると、某美大で油絵を書いているという女子に出会い、お互い食事がまだだということで、一緒に食べることに。青森駅の郷土料理屋に入り、彼女は海鮮丼を、僕は海鮮ラーメンを食べる。ラーメンは、スープに魚介の出汁が染み込んでいて、とても深い味になっていた。

 彼女は地元が青森で、とある事情でこっちに帰ってきたけれど、また今夜のうちに夜行バスで大学まで戻らないといけないらしい。絵についての話とか(相変わらず僕はクリムトへの愛を語るわけで)、美少女展見たよって話とか、彼女のバイトの話とかで盛り上がる二人。

 バスまで時間があるということで、港を散歩したり、ゲーセンで遊んだり。普通にデートしてるみたいで楽しかった。てへぺろ

 彼女はある公募展に出展して入選したりと、いまノッている状況らしく、このままどんどん絵を描き続けてくれればいいなって思う。根本的には悩める少女のようだけれど、悩んだ分だけ大きな跳躍力を手に入れられるから、それを絵画にぶつけたら必ず面白いことになる。

 そして、もしどこかで個展を開くことがあれば、そのときはきっと遊びに行こう。この青い森で生まれ育った作家の絵を、僕も好きになるはずだから(別れ際に少しだけ作品の写メを見せてもらったけど、重厚感と尊厳のある力強い絵だと感じました)。

 

 ちょっとだけ時間があったので、青森の歓楽街を散策。スナックが密集するエリアを発見したのだけど、この店名はヤバイだろ……

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 びっくりして、写真もブレブレだ。

 

 そして、やけにネオンが眩しかったのがこのお店。

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 写真を撮っていたら、たまたま外に出かけていた店長のおっちゃんが帰ってきたところで「やべ、殺される」って思ったけど、店長さんは優しくお店のシステムとかを紹介してくれて一安心。

 それに付け込んで「今は女の子のお店で遊ぶ気分じゃないんですよ。それより、美味しいご飯が食べられるお店って知ってます?」という調子に乗った質問をしたところ、なんと実際にお店の前まで連れて行って案内してくれた。残念ながらそのお店はもう閉まっていて、次の日も定休日ということで今回は行けなかったんだけど、次に青森に来たらそこに行きますと(サロンのほうはわからんけど)誓って、おっちゃんと別れた。青森もいい街だ。