液体状の夕焼け

不自然な呼吸 世界一の秘密 悲しかったよ

ホドロフスキーのDUNE


映画『ホドロフスキーのDUNE』予告編 - YouTube

 

 『エル・トポ』さえ見たことのない不束者だけど、2014年はホドロフスキー・イヤーということらしいので、積極的にこのお爺ちゃんに触れてみたいと思う。その第一弾。

 

 とても痛快な映画だった。この人、自分の『DUNE』が未完成に終わったことなんて、少しも恥じていない。いや、計画が頓挫した直後は屈辱に塗れていたのだろうけど、デヴィッド・リンチのほうの『DUNE』が駄作だと分かった時の嬉しそうな顔!そこからまた創作へのエネルギーを取り戻す様が、なんとも人間臭くて愛らしい。

 しかしこの映画は、お爺ちゃんたちが「昔はよかった」と過去を回顧するような生ぬるい作品では、決してない。むしろ未完成に終わった作品を振り返ることによって、まだこの世界では具現化されていない創作の可能性を引き出そうとしている。あるいは、未完の『DUNE』を超える映画が未だに誕生しないことに対する喝なのかもしれない。

 僕自身、この映画からはとても強い勇気をもらった。未完成を恥じる必要なんか、どこにもない。それが偉大なる芸術であるならば、それを完成させるために費やしたエネルギーが、きっと世界を動かすのだ。『DUNE』から『エイリアン』や『スター・ウォーズ』や『マトリックス』や、その他幾多の名作が誕生したように。

 そして、完成できないことを恐れるよりも先に、完成させるために必要だと思うことは何でもやってみるべきだということを学んだ。それがどんなに荒唐無稽に見えたとしても。それが魂の戦士として唯一必要な条件なのだ(そして「魂の戦士」って表現が格好よすぎて痺れる)。

 

 現在、僕が会社で仕えているお爺ちゃんが、どことなくホドロフスキーに似ていると思った。そのお爺ちゃんは芸術的な思想の持ち主ではないし、ホドロフスキーのようなロマンチストというよりむしろ、資本主義社会で成功したリアリストなのだけど、なんというか、人たらしなところがそっくりなのだ。僕自身、無茶な要求をよくされるのだけど、存分にたらされているせいか、ついつい言うことを聞いてしまうし。

 そして豪快で人懐っこい笑い方。たぶん社会を変えるような仕事を成し遂げる人間は、みんなあんな風に楽しそうに笑うのだろう(あるいは心から一切笑わないかの二択かもしれないけれど)。本作で描かれているホドロフスキーブラックホールみたいで、その強烈な才能にたくさんの才能が吸い込まれていき、一つの小宇宙を形成していく。そのプロセスを垣間見せてくれるだけでも、この作品を見た甲斐があった。

生と死の幻想 -盛岡青森一人旅 その3-

 僕にとって、青森は死の薫りがする都市である。

 あれは小学3年生のころ、特にイジメを受けていたとかではないのに、なぜかとてもナイーブになっていた当時の自分は、とにかく死にたいと思っていた。毎日死の幻想に取り憑かれていた。そのころは信仰心の厚いクリスチャンでもあったから、死んだら天国に行って幸せになれると考えていたのだ。

 そんなある日、親に連れられ青森から函館へとフェリーで向かおうとしていた時のこと。後部座席でウトウトしていた僕は、ぼんやりと死について考えていた。あのフェリーが沈没したら、きっと死ねるに違いないとか。ちょうどタイタニックが流行ってたころだし。

 ちょうどその時カーラジオから流れてきたのが、シーナ&ロケッツの「ユー・メイドリーム」であった。浮遊感のある幻想的なメロディやギターリフに、僕はうっとりしてしまった。死ぬ時にこの曲が流れていたら素敵だなと思った。しかし同時に、こんな美しい曲があるならもう少し生きていてもいいような気もした。

 この日、この青森で初めて、生と死の境目なんて簡単に乗り越えられるのだと思い至った。そして僕はまだ生きていて、再び青森へと旅をしている。


シーナ&ロケッツ You May Dream(1980) - YouTube

 

 月曜日。

 朝6時起きで恐山に出発。なんせこの日は、青森→恐山→仙台という合計9時間の行程を運転しなければならないのだ。のんびり寝てる暇はない。

 というわけでガンガン運転したんだけど、前をトロトロ運転してる車を抜かそうと思って対向車線に移り、しかし向こうから車が来たのを見て急いで元の車線に戻ったその時、「ドン」という大きな音とともに車内に衝撃が走り、走れば走るほど車がガタゴト激しく揺れる。パンクだ。

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 無残な姿になった相棒の後輪タイヤ。このせいで車は真っ直ぐ走らないし、ブレーキもかなり効きにくくなった。車体が奏でるガタゴト音の中で、僕は死を覚悟した。交通事故死だったら新聞くらいには載るかなとか思いながら。

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 そんな折に整備工場を発見したので、助けを求める。中にいたのはいかつい顔したお兄さんだったけれど、事情を話したらとても親身になって対応してくれて、迅速に修理をしてくれた。待ってる間は事務所に通していただき、なんと社長さん直々にコーヒーまで振る舞ってくれた。人間ってあったけえ!まだ死ぬわけにはいかないと思った。

 

 やはり生と死の境目を意識するようなハプニングを経て、いよいよこの一人旅最大の目的である恐山へ。霊場に着く前に三途の川を発見。

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 Wikipedia先生曰く「善人は川の上の橋を渡り、罪人は悪竜の棲む急流に投げ込まれる」そうなので、善人のフリして橋を渡ってみた。

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 橋の上から見た川の水はとても澄んでいて、これが悪竜の棲む急流だとは思えなかったけど。

 

 霊場に到着して、まず目に飛び込んだのが霊場アイスである。「恐山盛り!!」って何だ。そんなにオドロオドロしい量なのかと思ったけど、買ってる人を見たら割と普通の盛られ方をしていて拍子抜け。

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 このゴツゴツとした岩肌が恐山の特徴である。よく見たら、後ろのほうの岩がケルベロスの顔みたい。悪いことをした奴は、荒れた岩でカモフラージュをした冥界の番犬に飲み込まれて、地獄に連れて行かれるのだろう。恐山にはいろんな地獄があるのだけど、ここは無間地獄。僕もいつか亡者となってここに堕ちてしまうに違いない。

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 血の池地獄という恐ろしい名前の地獄もあった。血というよりも、むしろ藻の色をしているのだけど。

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 はっ、もしかして亡者になったら、人間と同じ赤き血潮は流れなくなるということなのか。ヘドロみたいな色の血が流れた亡者は、きっと血の池地獄で苦しみ続けるのだろう。

 

 恐山といったら、やっぱり原色のかざぐるまである。無機質な色をした岩肌と、強く激しい色合いのかざぐるまのコントラストが強烈で、引きこまれてしまう。ここに集まった水子たちは、このかざぐるまで楽しんでくれるのだろうか。せめてそれならば、残されたほうも救われる。

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 さて、恐山には地獄もあれば極楽もある。生と死と同様に、極楽と地獄も隣合わせで、もしかしたら簡単に乗り越えられるのかもしれない。その極楽とは、宇曽利湖(うそりこ)という湖である。

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 写真じゃ伝わりにくいけど、まるで南国のビーチのように鮮やかな風景。水はどこまでも透明で、冷たくて、気持ちいい。深い緑をした森の木々は、僕たちに美味しい酸素を提供してくれる。青い空、白い雲。青い湖面と白い砂浜。この静かな湖畔は、まさにこの世の極楽である。昨日出会った美大の女の子が、恐山のなかでも宇曽利湖が一番好きだって言っていたのも宜なるかな。こんな美しい湖で、そんな女の子と心中できれば幸せかもしれない。

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 宇曽利湖とかざぐるま。孤独な霊魂も、ここで遊べば穏やかな気持ちになれるかな。

 

 極楽を過ぎると、新しい自分に生まれ変わる場所、胎内くぐりへと辿り着く。

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 坂の傾斜がかなり厳しい。新しい自分になるのは、容易なことではないのだ。

 

 五人組(五体組?)のお地蔵さんもいた。左端のサングラスを掛けた子が可愛い。昔のマイマイみたい。そうだ、ちょうど五人だし、これを℃-ute地蔵と呼ぼう(罰当たり!)。

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 印象的だった言葉。「人はみなそれぞれ悲しき過去持ちて賽の河原に小石積みたり」。小石を積み上げては、それを誰かに崩される。もしかしたら、自分自身もその「誰か」になっているのかもしれない。人生なんてそんなものなのだろうか。

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 恐山までのドライブルートで印象的だったのが、紫陽花の鮮やかな青色。硫黄の匂いが強烈なこの地域だから、強い酸性の土壌なのだろう。

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 この青と緑の対比。さっきの岩肌とかざぐるまの対比。そして極楽と地獄の対比。僕らはいつでもあっちの世界に行けるし、きっとこっちの世界にも戻ってこれるのだろう。このふたつは断絶しているようで、本当はつながっているのだから。

 生と死の幻想のなかで、僕らは永遠に踊り続ける。

 

 こうして今回の旅は幕を下ろしたのだった。

跳躍の美少女 -盛岡青森一人旅 その2-

だって、女には、一日一日が全部ですもの。男とちがう。死後も考えない。思索も、無い。一刻一刻の、美しさの完成だけを願って居ります。 

 ――太宰治「皮膚と心」

 女の子に生まれたかった。幼いころから、ずっと。別に性同一性障害だとか、そこまでシリアスな問題ではないのだけれど、自分が男であることには、未だに違和感と劣等感を抱いている。

 自分が女の子になれないからこそ、少女のもつ跳躍力への羨望は尽きない。女性だけが手に入れられる類の精神の自由さを、僕は「跳躍力」と呼んでいるのだけど、僕がいろんな女の子と遊びたいのも、その跳躍力から漲るエネルギーに触れたいことが理由なのだ。

 上野千鶴子は、ミソジニーの男こそヤリチンだと(こんな露骨な表現ではないけれど)書いていて、確かにそれも一理あるとは思うんだけど、でも自分は違うと思っている。ミソジニーというよりも、むしろミサンドリーだし。男怖いもん。そして、女の子への憧れと、女の子になれなかったコンプレックスが、僕を女の子へと引き寄せるのである(結果として当の女性自身からサイテーと言われるのは、どちらでも変わらないのだけど)。

 

 前置きが長くなった。日曜日。今日の目的は、青森県立美術館の「美少女の美術史」展を見に行くことである(ホントは十和田市現代美術館も行きたかったんだけど、前日の疲れで起床時間が遅くなってしまったから諦めた)。

 ちゃんとジェンダー論を勉強していないから陳腐な意見かもしれないけど、女の子の跳躍力とは、長いこと社会において女性が「客体」であるからこそ逆説的に生まれたエネルギーであると思っている。男たちの好奇的な、無遠慮な視線に晒され、抑圧されてきた女子だからこそ、それをはね除けるだけの力を手に入れることができるのだろう。

 もちろん男だって男なりに社会的な役割に抑圧されているんだけど、一般的に男はその社会の枠組みの中で無難にまとめようとするから、跳躍力は生まれない。それを超越できるのは、破滅を恐れないごく僅かな天才だけだ。

 また話がブレたけど、客体としての女性のなかでも、特に「見られる」ことを意識せざるを得ないのが美少女であろう。好むと好まざるとに関わらず、美少女は注目され、所有され、妄想され、消費される。美少女というカテゴリーに無理やり押し込まれるからこそ、美少女のもつ跳躍力は凄まじいものがある。アイドルの圧倒的な輝きを例として挙げるだけでも充分であろう。

 

 というわけで、美少女を主題にした展覧会には非常に心を惹かれていた。胸を高鳴らせながら、盛岡から青森へ向かう。道中、焼ききりたんぽが食べたくて花輪SAで休憩したら、こんなものを見つけた。

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 今や街興しにも美少女が使われる時代。やはり美少女の跳躍力は病める現代社会への特効薬なのだ(と言いつつこのクリアファイル、背景が没個性的すぎて、いったいどこのご当地なのかよく分かんないけど)。

 

 そして念願の青森県立美術館に到着。真っ白な建築と、芝生の緑のコントラストがとても美しい。しかし、美少女の美術史の看板がデカデカと掲げられていると、一瞬にして空間が混沌とする。それさえ美しいのだけど。

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 入館するといきなり美少女ライブペインティングの制作物が。なかなか露悪的な美少女たちの笑顔に、予備知識無しで入館したと思われる中年ご夫婦は眉を顰めていた。こないだロリコン誘拐犯が捕まったばかりだから、尚更なのかもしれない。

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 ※ここから先は撮影禁止なので、公式HP等からの転載となります

 展示室に入ると真っ先に眼に入るのが、全長6mもあるタカノ綾のフィギュア。この人の作品は穂村弘の『手紙屋まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』でしか知らなかったけど、なんという挑発的な瞳をしているのだろう。この瞳に吸い寄せられたが最後、男たちはどこまでも堕ちていくのである。

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 現代の作家の作品で一番感銘を受けたのは、谷口真人さんの「Untitled」だった。図録の解説を引用すると「手前のアクリルに盛られた絵の具の塊の奥にひそむイメージが、奥の鏡に少女の像を結んでい」る作品である。

 この作品がすごいのは、鏡の中の少女を見る時に、否が応でも少女を覗きこむ自分とも眼が合ってしまうこと。さっき、美少女は見られる客体だと書いたけれど、現代においては、すべての人間が客体と化しているのかもしれない。常に何者かに監視され、また自分も誰かを監視していないと不安になる時代。そんな閉塞した社会を、しかしながら美少女たちはピョイと飛び越える。まるでそれが美少女だけに与えられた特権であるかのごとく。

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 太宰治の『女生徒』を題材にしたオリジナルアニメも素敵だった。遊佐未森のナレーションが、レトロな作風とよくマッチしている。ちなみに、いち早く女性の跳躍力に気付いた作家こそが太宰であると僕は思っている。何度も心中しようとしたのも、女性に死の世界に導かれることが解放に結びつくと信じていたからなのかもしれない。


美少女展オリジナルアニメ予告編 - YouTube

 

 個別の作品について言及しているとキリがないので打ち止めにするけど、僕が求めていた美少女の跳躍力を期待以上に味わえる展覧会であった。諸々の作品の前で、ひとりニヤけたり驚愕したり震えたりする僕を見て、他のお客さんは「気持ち悪っ!」って思ったかもしれない。でも、美少女に対しては、心を空っぽにして向き合うこと。これこそが、跳躍のエネルギーを感じるために唯一必要なことだというのが持論だから、こればっかりは仕方がないのだ。

 

 なお、常設展の「寺山修司×宇野亜喜良:ひとりぼっちのあなたに」も震えまくるような展覧会だったのだけど、寺山修司について語り出すともう止まらなくなってしまうから、「昂奮した」以外の感想は書かないでおきます。

 

 その後青森駅前のホテルにチェックイン。ホテルそばのファッションビル・アウガではこんなイベントをやっていた。

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 今日は一日中美少女と接する日なのだと実感。

 

 晩ごはんをどうしようか迷い、昨日と同じく現地の人に聞く作戦に出る。すると、某美大で油絵を書いているという女子に出会い、お互い食事がまだだということで、一緒に食べることに。青森駅の郷土料理屋に入り、彼女は海鮮丼を、僕は海鮮ラーメンを食べる。ラーメンは、スープに魚介の出汁が染み込んでいて、とても深い味になっていた。

 彼女は地元が青森で、とある事情でこっちに帰ってきたけれど、また今夜のうちに夜行バスで大学まで戻らないといけないらしい。絵についての話とか(相変わらず僕はクリムトへの愛を語るわけで)、美少女展見たよって話とか、彼女のバイトの話とかで盛り上がる二人。

 バスまで時間があるということで、港を散歩したり、ゲーセンで遊んだり。普通にデートしてるみたいで楽しかった。てへぺろ

 彼女はある公募展に出展して入選したりと、いまノッている状況らしく、このままどんどん絵を描き続けてくれればいいなって思う。根本的には悩める少女のようだけれど、悩んだ分だけ大きな跳躍力を手に入れられるから、それを絵画にぶつけたら必ず面白いことになる。

 そして、もしどこかで個展を開くことがあれば、そのときはきっと遊びに行こう。この青い森で生まれ育った作家の絵を、僕も好きになるはずだから(別れ際に少しだけ作品の写メを見せてもらったけど、重厚感と尊厳のある力強い絵だと感じました)。

 

 ちょっとだけ時間があったので、青森の歓楽街を散策。スナックが密集するエリアを発見したのだけど、この店名はヤバイだろ……

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 びっくりして、写真もブレブレだ。

 

 そして、やけにネオンが眩しかったのがこのお店。

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 写真を撮っていたら、たまたま外に出かけていた店長のおっちゃんが帰ってきたところで「やべ、殺される」って思ったけど、店長さんは優しくお店のシステムとかを紹介してくれて一安心。

 それに付け込んで「今は女の子のお店で遊ぶ気分じゃないんですよ。それより、美味しいご飯が食べられるお店って知ってます?」という調子に乗った質問をしたところ、なんと実際にお店の前まで連れて行って案内してくれた。残念ながらそのお店はもう閉まっていて、次の日も定休日ということで今回は行けなかったんだけど、次に青森に来たらそこに行きますと(サロンのほうはわからんけど)誓って、おっちゃんと別れた。青森もいい街だ。

玉虫色のマーチ -盛岡青森一人旅 その1-

 暑い季節は、ひたすら北へ北へと旅をしたくなる。苗字からルーツを辿ると、もともと近江の国にいた一族が、なんやかんやあって青森に北上した家系のようで、その血が数百年後の自分をも駆り立てるのだろうか。

 

 土曜日。

 休日出勤を終えた私は、その足でいそいそとレンタカー屋さんに向かい、この二泊三日の相棒と対面。玉虫色をしたマーチであった。玉虫色の生き方を脱却できずに苦悩する今の自分には相応しい色だなと思う。

 今回の旅は、盛岡~青森の二泊三日だ。一番の目的は恐山である。生と死が交差するあの場所で、自分の命を見つめてみたかった。

 盛岡までは、仙台から車で二時間強。玉虫色の相棒は、今日びリモコンロックさえついてない旧式で、燃費がすこぶる悪い。見る見るガソリンメーターがEの側へと近づいていく。走れば走るだけ、自分の身体も同じように空っぽになって、余計なものが削ぎ落とされていく感じがする。だから運転するのは好きだ。

 高速道路を走らせていると、路側帯で休んでいる車を発見。でも休憩したいなら、もう少しでPAがあるのに。よっぽどの緊急事態だったのだろうか。あるいは、急激な性衝動?

 高速道路に車を停めて、真横を猛スピードで車が走るなか、死と隣合わせでセックスをしてみたい。ジョルジュ・バタイユエロティシズムとは、死に至るまで生を称えることである」 と言っていたけれど、そんな衝動に突き動かされたふたりが、ひとつになっているのかもしれない。

 そして、こんなセックスで子供ができることになったら、素敵な皮肉である。

 

 そんなことを考えながら、盛岡に到着。まずは繁華街であるところの大通りへ。てくてく歩いていると、櫻山神社なる神社を発見。近づいてみると、あまりにも不気味な人形が立っていた。「領民安堵」って書いてるけど、こんなの見ても安堵できるわけないでしょうに。

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 今回、どうしても食べたかったのがじゃじゃ麺だ。冷麺なら仙台にも美味しい店があるけれど、じゃじゃ麺はホームランどころかヒットさえ見つからない。

 地元の美味しい店は、地元の人に聞くに限る。ということで、ほろ酔い加減で歩いていたスーツ姿の女性に声をかけて、おすすめのじゃじゃ麺屋さんを聞くことに。一瞬怪訝そうな目を向けられたけど、旅の者ですと説明すると、優しくいい店を教えてくれた。盛岡はいい街だ。

 彼女を信じて向かったのは、香醤さん。おやじさんとおかみさんのお二人でやっているようなお店であり、その飾り気のない雰囲気は、確かに観光客よりも地元の人に愛されそうだなと思った。

 壁の張り紙には、「生麺の為ゆで時間が12分くらいかかります」と書いてある。結構長いな……待つ分だけ、期待は膨らむ。

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 そして出てきたのがこのじゃじゃ麺。ずばり、美味しかった。味噌のしょっぱすぎず薄すぎずの絶妙な塩梅。そして、少し柔らかめの麺が味噌とよく絡み合う。ひさびさに、ちゃんとしたじゃじゃ麺を食べることができた。もちろんチータンも。

 あのお姉さんを信じてよかった。飲み会帰りにも関わらず、いいお店を教えて下さり、ありがとうございます。ちなみに彼女が言うには、盛岡の人は飲みの締めにはラーメンではなくじゃじゃ麺を食べることもあるらしい。さすがソウルフード

 

 まだ小腹が減っていたので、次は冷麺を食べたくなった。先ほどと同じように、道行く地元の方にお店をリサーチ。すると、だいぶ千鳥足になっている20代前半くらいの女性が優しく対応してくれた。

 そのころはもう23時を過ぎていたのだけど、彼女曰くこの時間に冷麺屋さんはもう開いていないとのこと。焼肉屋さんなら何件かやってるみたいだけど、冷麺オンリーという感じではないようだ。がっかり。

 職場の後輩と遊んできたという彼女は大量にお酒を飲んだようで、終始ハイテンションでそのような説明をしてくれたのだけど、その勢いにこちらも感化されて、冷麺とか関係なしに、普通にもう一杯飲みましょうと誘ってみる。あー、旅を口実にした体の良いナンパだわ、これ。

 

 若干迷いながらも、哀れな旅人を不憫に思ったのか誘いに応じてくれる彼女。盛岡はいい街だ。もはや全国どこにでもあるような居酒屋に入って、地元のことをいろいろと聞いてみる。

 曰く、あまちゃんで「じぇじぇ」が流行ったけど、あんなの岩手のごく一部の、しかもかなりの高齢の人しか使わない局所的な感嘆詞に過ぎなくて、もっとポピュラーなのは「じゃじゃ」のほうみたい(しかも、発音は英語のtheに近いそうな)。

 僕が「方言を使う女の子って可愛いよね」って話すと、彼女は「九州とかそっちのほうなら可愛い。『あんたのこと好いとーと』とか言われたら、女の私でも落ちる自信がある。でも東北の方言なんて可愛くないよ」と自嘲するので、いかに東北の訛りがめんこいかを力説してあげた。

 ちなみにその娘の喋り方は、まるで美少女ゲームに出てくる女の子みたいに擬音をたっぷり使ったものであって、方言を交えた擬音って新しい萌えのジャンルになるんじゃないかと思った。ビジネスチャンス!

 

 その流れで?恋愛トークとかもしてみる。彼女は彼氏といるよりも友達と遊びたいタイプらしく、それで前の彼氏とも仲違いしてしまい、それ以降しばらく恋愛はしていないようであった。「自分の時間って大切っすよねー。そうじゃなきゃ、しんどいもんねー」と同意する。自分だって一人旅大好きな種族だもの。そういうのを尊重してくれる人じゃないと、疲れる。

 その夜僕は、彼女とベッドを共にする夢を見た。旅先のアバンチュール、よくある話だろう。まるで成人向けゲームに出てくる女の子みたいに、擬音たっぷりの喘ぎ声を上げる(という妄想の)彼女と交わっていると、脳味噌の細胞がどんどん破壊されていく感覚がしてきて、とても気持ちいい。

 きっとセックスで壊れた細胞は、より洗練されて、また甦るのだろう。ゴムの中で尽き果て、これが死に至るまで生を称えることなんだと、彼女の柔らかい身体を抱きしめながら思った。そんな夢から醒めると、盛岡の夜は静かに更けていった。

思い出のマーニー


「思い出のマーニー」劇場本予告映像 - YouTube

 

 百合なの!?百合じゃないの!?だってコピーは「あなたのことが大すき。」だし、鈴木敏夫による没になったコピーは「ふたりだけの禁じられた遊び」、「ふたりだけのいけないこと」だし(実はジブリ関係者で、鈴木敏夫が一番オカシイ人なのではないかと思っていて、この話を聞いてそれが確信に変わった)、もう百合でしょ!という期待を込めて映画館へ。

 

 結論から言えば、まったく百合ではない。ちっとも。それなのに百合の期待を持たせるプロモーションは如何なものかと思った。プンプン。「いけないこと」とか言うなら、近親相姦レズくらい振り切っちゃってるのかって思うじゃんか。

 『アデル、ブルーは熱い色』を観れば分かるように、肉体関係がないなら百合なんかじゃない(実際に肉の結合を果たせなかったとしても、それを激しく切望して、でも手に入らないという苦悩を描いていれば、それは百合です)。

 でも、百合じゃないから駄作、というわけではない。むしろ個人的には、傑作になりそこねた一本だと思っている。

 

 「私は外側の人間」「私は、私が嫌い。」という自己否定を繰り返す12歳の少女・杏奈。僕自身、12歳の頃は(むしろ今もか)そのように思っていたから、すっと主人公に感情移入することができた。そんな杏奈が病気療養のために海辺の村の親戚の家で過ごすことになる。その村の広い池のほとりには古くて大きな洋館があって、そこに住む少女・マーニーと杏奈は次第に心を通わせるのであった。

 マーニーとの触れ合いを経て、少しずつ心を開いていく杏奈の描き方は、とても上手だと思った。日頃から心を閉ざしがちな人間にとっては、マーニーみたいなウルトラCの存在の登場こそが、自らを解放するきっかけとなるのだから。つまらん友達や委員長じゃ力不足である。こういう人間に限って、実はとってもわがままで、夢見がちで、白馬の王子様を待っているのです。

 杏奈の性格の悪さが滲み出るシーンが多かったのも好印象。おせっかいな委員長に対して「太っちょ豚」って吐く場面なんか、拍手喝采ものである。せっかく受け入れてくれた大岩のおじさん・おばさんに対しても、割と不遜な態度で接するし。性格悪いくらいじゃないと、きっと幽霊なんて見えない。杏奈をただのいい子として描かなかった判断は大正解だと思う。

 

 だからこそ、あのラストシーンはがっかりだった。すべてを説明する必要が本当にあったのか。あそこまで懇切丁寧に描かなくても、観客はマーニーが杏奈のおばあちゃんだということが分かるはずだ。むしろ、それとなくこの事実を描いたほうが、爽やかな夏の北海道の景色と相俟って、気持ちのよい結末になったはずなのに!

 どうして最後だけ説明過剰になったのだろう。ジブリの自己判断?それともスポンサーからの要望?いずれにせよ、「杏奈がマーニーをおばあちゃんだと認識する」シーンのしつこさ・あざとさは不要であると言いたい。これさえ無ければ、この夏いちばんの切ない映画になりえたのに。

 きっと、ちゃんと説明を、ネタバラシをしてあげることが観客に対する優しさであるのだと監督は考えているのだろう。でも、映画監督が優しくある必要なんか、どこにもない。むしろ杏奈と同じくらい、監督だって性格が悪くてもいい。だって映画は暴力的な芸術なのだから。

 上記を踏まえると、やはりパヤオは、どこまで描くかの取捨選択に関して天才なのだと再認識してしまう。観客に与えるべき情報が過不足ないから、見終わったあとで観客が想像を膨らませる余地が多分に残されるのだ。みんながジブリについて語りたがる理由もそこにあるのだろう。